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本の出版に向けた執筆「親子の愛と正しい努力」

保育園時代、私は幼心にこう思いました。

お父さんとお母さんのところに産まれてきて良かったな。

っその理由は「周囲が差別的」だったからです。

目が不自由な母親は白い杖を突き、片方の手で私の手を握り送り迎えをしてくれました。

雨のひも風の日も雪の日は車のわだちを頼りに。

その姿をみて手助けしてくれる人もいますが、後ろ指を刺して罵声を浴びせる人もいました。

しかし、母親は一言も弱音を吐かず悪口も言わず笑っていました。

父親も「お父ちゃんが一番の味方だ」と言ってくれて心強かったです。

小学生に上がると、私は明確に他人との違いに気が付きました。

教科書の文字が一文字ずつくらいしか見えなかったんです。

また、眩しさや暗さには極端に弱く、人や物と衝突しました。

勉強も体育も楽しいはずの行事も恋愛も、全く駄目。

中学までは最幸の仲間もいましたが、高校時代は酷いいじめを受けました。

厳しい父親には「何か取り柄はないのか?」と言われて、考えました。

唯一、自分が誇れるものは「挫折と傷ついた経験の多さ」でした。

本庄第一高校時代、偏差値が最低だった私は4つの医療系国家資格の取得を目指し、上京を決めました。

傷ついたからこそ、困っている人に寄り添う仕事に人生をかける覚悟を決めたんです。

自分を愛して育ててくれた両親に報いたいとも思いました。

推薦入試で学力試験が無かった為、面接とディベートで筑波大学附属盲学校の理学療法科へ入学。

システムエンジニア、教員、和菓子職人など。

事故や病気で視覚障害を患ってしまった人達と共に学びました。

私は一年留年、国家試験に二度落第。

東京で一人暮らしを経験し、リハビリ助手の仕事を辞めて帰省。

鍼灸マッサージの視覚取得も目指し、専門学校へ入学。

同時に4つの国家資格を勉強し、予定どおり理学療法士と鍼灸マッサージの資格を取得。

ここでは割愛しますが、理学療法士時代はパワハラを受けて、恫喝されたり会社からは賞与をカットされるなど非常に理不尽な思いをしました。

それも含めて妻子に恵まれたこと、命や健康の尊さを学べたことは財産です。

以上の経験から周りを変えようとするのではなく、自分を変えることが正しい努力ではないかと考えます。

今日も私は朗らかに、安らかに、喜んで、進んで働きます。

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