私の父親は、藤岡市鬼石町の出身です。
父親はマッサージの国家資格を前橋の盲学校で取得後、各地で修行を重ね、群馬に戻って来ました。
当時、まだ差別が強い時代でした。
私の父親は生まれつき「弱視」ですが「目が不自由な人に家を貸して、火事でも起こされたらかなわん」と、大家さんはすぐには家を貸してくれなかったそうです。
一足、靴を潰す勢いで賃貸物件を探し回り、ようやく見つけたのが、国道17号線にあるアパートでした。
父親は高崎市新町で開業し、前橋の盲学校時代に知り合った彼女と結婚し、二人で鍼灸・マッサージ治療院を開設しました。
私が産まれると、がらりと日常は変わったそうです。
私は逆子だったらしいのですが、それ以外にも難産だったようです。
私が産まれた病院にはエレベーターが無く、分娩室が2回で病室が一階という構造だった為、陣痛が来た母親は看護師さんと義理の叔母がタンカーをかついで二階まで運んだそうです。
目が不自由な両親ですので、子育ては大変だったと思います。
母親に聞くと「死ぬ覚悟をしなければ子育てなんてできなかった」と話しました。
なんとなく覚えていますが、弱視の母親が幼い私の手をしっかりと握って国道を黄疸し、白い杖を片手に保育園の送り迎えをしてくれました。
買い物はヘルパーさんと一緒でしたが、ほとんど目が見えない母親は包丁も火も使って簡単な料理をします。
父親は仕事以外に「視覚障害者と健常者が伴走マラソンを通じて心のバリアフリー」を目指す活動を始めたり、毎週のように私を東京の遊園地に連れて行くなどパワフルでした。
当時、やべぇな俺の親。
と、思いましたが、いざ自分が親になると私も目が見えない状態で鬼ごっこをしますし、カレーくらい作れるので、なるようになるのですね。
道路も車が来るかを耳で判断し、我が子を抱いた状態で直感を頼りに黄疸します。
それは、日常茶飯事です。
いちいち人を頼っていたら、きりがありません。
交通事故よりも怖いのは「生きることを諦めること」です。
じっとしているならば「死んだほうがマシ」だと覚悟を決められるくらい行きづらい世の中です。
私は子供の時から慎重かつ大胆にに「命懸けで育ててくれた親のために人を喜ばせる生き方をしよう」と考えて現在に至ります。
命を守り健康を保証するのは、甘くはありませんね。